LOGIN「会議前に会社で食べる。二年前から、朝は軽食を置くようにした」
車でコーヒーだけを飲んでいた人が、今は社員と一緒に朝食を取る。会社の規模が三倍になったことより、その小さな変化の方が、五年間の長さを具体的にした。 会計を済ませ、紙袋を抱えて外へ出る。景都の手には何もない。私はさっきの組織図より、その空いた手を見ていた。「それも知らなかった。会社の朝食」「君が知る必要のなかった時期に始めたから」 胸の奥が一瞬だけ狭くなる。けれど、知らなかったことを責めれば、また空白の五年を取り合うことになる。「今は知りたい」 景都は歩きながらこちらを見た。街灯の下で、表情が少しだけ柔らかくなる。「じゃあ、今日知った。それでいい」 紙袋の中で、私が選んだチーズパンが歩くたび小さく揺れた。明日の朝のことだけは、自分で決めて持ち帰ることができた。 二度目のシンガポール出張は、前回より急に決まった。三日間。地域テストの追加確認と、現地チームへの仕様説明。航空券が確定した日の夜、私は蕎麦屋で行ってほしくない気持ちまで消したふりをしないまま、私の仕事を止める言葉もない。私は画面を閉じ、搭乗案内に従って列へ並んだ。 帰国日の予定には、景都と会う時間を入れてある。それだけ確認して、スマートフォンを鞄へしまった。◇ シンガポールへ着き、ホテルのカーテンを開けると、高層ビルの間を車の灯りが流れていた。湿った夜気は窓越しでも分かるようで、日本を出た朝がすでに遠い。 街の写真へ『着いた』と添えると、景都からは『お疲れ』だけが返ってきた。 机には現地チームから追加された確認事項が三件届いている。私は一つずつ返信し、翌日の資料とサンプルを鞄へ入れ直した。集合は八時半。仕事の予定を自分のカレンダーへ入れたあと、金曜夜の空白が目に入る。 迎えを頼んだだけで、何も書かれていない時間が、いつもと違って見えた。 帰国便の到着予定を送ると、景都はすぐ了承した。私は、到着ロビーへ出てから連絡することと、早く来すぎないことを念押しする。一拍置いて返ってきたのは、待つ場所だけは先に決めてもよいか、という確認だった。 そこまでならいい、と返す。 景都にとって、早く来ないことより、待つ準備をしないことの方が難しいらしい。笑いながら目覚ましを六時半に合わせ、スマートフォンを伏せた。 明日は現地スタッフと一日歩き回る。帰国はまだ二日先だ。 それでも金曜の夜だけは、もう私たちの小さな約束になっていた。 帰国便は二十五分遅れた。 入国審査も混み、到着ロビーへ出た時には二十二時を過ぎている。 会社の同行者と別れ、キャリーケースを押して自動ドアを抜けた。 景都から連絡は来ていない。 機内モードを切った時に送った『着いた』へ、『了解』と返ってきただけだ。 迎えに来てと言ったのに、急な仕事でも入ったのだろうか。 私は一度だけスマートフォンを開く。発信ボタンへ触れる前に顔を上げると、柱の向こうに黒いジャケットが見えた。 景都は壁際の椅子に座り、紙のカップを持っていた。 私に気づくと立ち上がる。 走ってこない。手も振らない。 なのに、私
「会議前に会社で食べる。二年前から、朝は軽食を置くようにした」 車でコーヒーだけを飲んでいた人が、今は社員と一緒に朝食を取る。会社の規模が三倍になったことより、その小さな変化の方が、五年間の長さを具体的にした。 会計を済ませ、紙袋を抱えて外へ出る。景都の手には何もない。私はさっきの組織図より、その空いた手を見ていた。「それも知らなかった。会社の朝食」「君が知る必要のなかった時期に始めたから」 胸の奥が一瞬だけ狭くなる。けれど、知らなかったことを責めれば、また空白の五年を取り合うことになる。「今は知りたい」 景都は歩きながらこちらを見た。街灯の下で、表情が少しだけ柔らかくなる。「じゃあ、今日知った。それでいい」 紙袋の中で、私が選んだチーズパンが歩くたび小さく揺れた。明日の朝のことだけは、自分で決めて持ち帰ることができた。 二度目のシンガポール出張は、前回より急に決まった。三日間。地域テストの追加確認と、現地チームへの仕様説明。航空券が確定した日の夜、私は蕎麦屋で景都へ日程を伝えた。「水曜の朝便で、金曜の夜に戻る。三日だけ」 景都は箸を置き、「空港までは」と言いかけたところで口を閉じた。行きは会社の同行者と一緒だと、まだ説明していないのに思い出したらしい。「送るって言おうとした?」「聞く前に手を出すところだったな」 不満を飲み込むように水を一口飲む。その顔を見ながら、私は蕎麦の器を少し脇へ寄せた。「行きは大丈夫。でも帰りは一人になる。だから、今度は迎えに来て」 自分から頼んだのに、口にすると拍子抜けするほど静かだった。景都はすぐ予定表を開こうとしたが、指を画面の手前で止める。便が決まったら送ってほしい、遅れても待つ、とだけ答えた。「早く来すぎないでよ」「努力する」 守れるとは言わないところが景都らしかった。 出発前夜、確認の連絡は来なかった。私はホテル名と移動手段を会社の共有シートへ入れ、金具の傷を防ぐ薄い布をサンプルへ一つずつ巻いた。灯は隣で箱の数を読み上げ、最後にゼリーの土産だけは忘れないよう念を押す。
昔なら、その場で出ていたかもしれない。「決まったら教えて。……途中でも、話したくなったら」 景都がこちらを見る。「候補者も権限も聞かないのか」「聞きたいけど、今はいい」 少し黙ってから、景都が笑った。「珍しいな」「その言い方は失礼」 改札前に着く。 会社の話はまだ途中だ。「景都が全部を決めない会社って、まだ想像できない」「俺も完成形は分からない。だから、いきなり全部は渡さない」「仕事の景都が、分からないって普通に言うのは珍しいね」 少し嫌そうな顔をしながらも、景都は否定しなかった。 改札の向こうに電車の案内が出る。 私は時計を見て、一歩だけ後ろへ下がった。「一本遅らせて帰る。あと五分だけ、会社の話の続きを聞きたい」 景都も改札へ入らず、柱の脇へ寄った。 五年間を埋めるには短い。それでも、全部を聞き出さず、途中のまま持ち帰れることが、今の私たちには必要だった。 あと五分だけ、知らない景都の話を聞いた。 景都の会社にCOOを置く話は、数日後もまだ決まっていなかった。 夕食の帰り、信号待ちで彼がスマートフォンを開いた。画面には組織図と承認権限表が重なっている。一定額以上の契約、人事、危機対応の初動、重要顧客への例外判断。赤い印がついた項目ほど、矢印は最後にCEOの欄へ集まっていた。「例の権限表?」 景都は頷き、私にも読める角度へ画面を傾けた。「契約も採用も、ここまで景都が見ていたの?」「金額と役職による。それでも多すぎた。日常の執行はCOOへ渡して、承認も経営会議へ分ける」 青信号になっても、景都はすぐ歩き出さなかった。親指で赤い印を一つ消し、別の欄へ移す。書類の上なら簡単な操作なのに、顔にはわずかな迷いが残っていた。 自分がいなければ進まない仕組みを崩したい。それでも、自分が決めた方が早い案件を手放すのは怖いのだと、景都は画面を見たまま言った。昨日も、移動中の一時間だけで三件の承認が止まったらしい。現場は待てた。だが
全部知っていた夫ではなく、今から知る人。 エレベーターへ向かう途中、若い社員が景都へ「お先に失礼します」と頭を下げた。 景都は時計を見た。「今日、もう終わり?」「はい。明日朝やります」「分かった。帰って」 その言い方も、私には知らないものだった。 夫だった頃、景都が部下に何を言っていたか、私はほとんど知らない。 エレベーターの鏡に並んだ私たちを見ながら、私はその方が少し面白いと思った。 LATTICE SHIELDを出たあとも、会社の壁にあった写真が頭に残っていた。 三年前の景都。去年の景都。 その時間に私はいなかった。 駅まで歩きながら聞く。「社員、国内だけで何人になったの?」「二百八十くらい。君が知っていた頃は九十前後だった」 百九十人分、知らない名前が増えている。会社の壁に残っていた写真と同じで、数字にも私のいない五年があった。「長かったね。景都自身は、ほかに何が変わった?」「コーヒーを減らした。腰も一度痛めた」 景都は腰へ手を当てるでもなく、歩調を変えずに答えた。知らなかった時間は、痛みの大きさより、その平然とした横顔に表れていた。「腰のこと、全然知らない」「離婚したあとだ。言う理由がなかった」 責められない答えほど、時間の長さだけが残る。「そういう小さいことが、たくさんあるんだね」 私にもある。 部署を一度移ったこと。髪を肩まで切ったこと。朝はコーヒーより紅茶を飲むようになったこと。桃のゼリーを好きになったこと。 どれも、夫婦だった頃なら、その日のうちに知っていたような変化だ。 信号が赤になり、景都が止まる。「会社の経営の仕方も変えようと思ってる。大きくなって、重要な承認が今も俺へ集まりすぎてる」 景都は前を見たまま言った。「景都が決めるのが一番早いから、そうなったんでしょう」「ああ。短期的には早い。でも、俺が一日いないだけで止まる会社になる。今は、その方が危険だ」 青になって歩き出
「分かった」 そのまま何も奪わない。 会場では私の言葉を取らず、帰り道でも荷物を取らない。 必要な時には、たぶん頼めばいい。「次のテスト結果、社外へ出せる範囲になったら見せる」「見せられるところだけでいい。無理に全部見せなくていい」 その返しが、今日は少し嬉しかった。 LATTICE SHIELDのオフィスへ行くのは、結婚していた頃以来だった。 会社は移転していて、受付もロゴも知らない。 入館証には私の名前の下に『VISITOR』と印字されている。昔は景都の机まで勝手に入れたことを思い出し、今の方がむしろ正しいと思った。 景都の会社なのに、初めて来た場所みたいだった。 物流拠点の打ち合わせが終わり、担当者が資料を取りに席を外す。 ガラスの向こうで、若い社員が景都を呼び止めた。「深見さん、これ見てもらえますか」 景都は立ったまま画面を見る。「まず結論を一文で。理由は二つでいい。三つ目は一つ目と重なっている」 若い社員は一度画面へ目を落とし、言い直した。景都は途中で奪わず、最後まで聞いてから一箇所だけ指す。「この現場の数字は残して。説得力がある。修正したら俺ではなく田島に見せて。担当はそっちだから」「分かりました」 自分で直さない。 若い社員も萎縮しているというより、直すところが分かった様子で席へ戻っていく。 景都は次の社員に呼ばれても、先ほどの資料を取り上げなかった。 私が知っていた景都なら、五分で全部書き換えていた気がする。 社員が戻ると、景都はこちらに気づいた。「打ち合わせ、終わった?」「今。何を見てた」「景都が若い社員に説明してるところ。厳しいけど、資料を取り上げて自分で直さなかった」 景都は会議室へ入り、私の向かいへ資料を置いた。「昔は取り上げて、俺が直してた。今は人数も増えたし、俺が全部見る方が遅い。俺が書き直して返したら、あいつは次も同じところでつまずく」「そういう顔、私知らなかった」 景都は平然
「そこまで言わなくていい。聞きたくなったら、こっちから聞く」 電車のライトがトンネルの奥に見える。 私は一本遅らせた電車の時刻をスマートフォンへ入れ直す。 景都は何も謝らない。 結論の出ない十分間が、思っていたより普通だった。 業界イベントの受付で、名札を受け取った。『mellow note 商品企画 水城真帆』 その文字を見て、少し安心する。 会場には取引先、物流会社、広告代理店が集まっていた。LATTICE SHIELDも出展していて、景都は午後に短い講演をする。 開始前、以前会った担当者から声を掛けられた。「水城さんですよね。深見社長の元奥さまの」 悪意はない。 だから余計に、胸元の名札が急に小さく見えた。「はい。元妻です」 一度だけ認めてから、私は名札を指で押さえる。「今はmellow noteの商品企画です。シンガポールの地域テストを担当しています」「あ、記事で見ました。失礼しました」 相手はすぐ仕事の話へ移った。「現地ではどのサイズが強かったですか」「意外と大きい方です。持ち手も長めが好評でした」 そこから五分、商品仕様の話が続く。 名刺を交換した時、相手はもう景都のことを聞かなかった。 少し離れた場所に景都がいる。 聞こえていたはずなのに、こちらへ来ない。 講演後も同じだった。 私は別の会社の担当者と、湿気に強い表面加工について話す。相手がサンプルを送ると言い、私は会社の住所を書いた名刺を渡す。 景都は自分のブースに立ったままだ。 壇上で話す姿は遠くからでも目立つ。けれど、私の商談へ入ってくることはなかった。 イベント終了後、会場の外でようやく二人になる。「さっき、元妻って呼ばれたところ、聞こえてた?」「ああ。君が自分で名札を出したから、俺が口を出す場面じゃないと思った」 私は紐を外し、掌の上でカードを裏返した。「助けはいらなかった。でも、私の仕事より元妻の方が先に出る







